「懐かしき想い出・思い出」カテゴリーアーカイブ

1970年、大阪万博記念の「タイム・カプセル EXPO’70」埋設地点より大阪城を

1970年、大阪万博記念の「タイム・カプセル EXPO’70」埋設地点より
大阪城を・・・ほぼ9年前に訪れた際の写真デス
当時も外人観光客が多くなったと実感したものですが、近年に行って見ると更に、益々多くなり・・・多くの観光地で似た状況らしいですネ
CIMG2031

尚、タイム・カプセル EXPO’70は二基が埋設されているらしい
一基は点検を目的に2000年から100年ごとに開封され
もう一つは何と、5000年後の西暦6970年に開封されるとのこと
豊臣秀吉さんは今、何を思う?

自力保津川下り?を敢行したこと、小さな(自身にとっては大きな)出来事・体験

ここは「保津川下り」亀岡市内の出発地点に程近いところDSC_2023~01.jpg

もう少しは緩やかな流れ、やや下流付近での動画映像は
保津川下り 、2015-05-06」 (YouTube サイト)

上の動画映像が終わる辺りは、JR嵯峨野線の馬堀駅
トロッコ列車の亀岡駅の近くで最近は外人観光客が多い

さて以前に、自力保津川下り?を敢行したことが有ります
結果は敢え無くギブアップ! 無謀でした。
その時の顛末は次のページをご参照下さい。
歩いて「保津川下り」試みるも・・・(1) 2013/08/15
歩いて「保津川下り」試みるも・・・(2) 2013/08/15

力尽きて断念した場所を、後に何度か列車内からガラス窓越しに撮ったことが有りますが今回のショットが鮮明さでは一番
これを機会に過去のメモ・画像を再掲することにしますhodugawa_down
電車内から撮影・・地点はJR嵯峨野線(山陽本線)の亀岡駅から京都駅に向かい馬堀駅を通過して次のJR保津峡駅までの3つ程のトンネル切れ目の最初の切れ目・・・から上流方向(亀岡側)スグ

上の写真で中央部の急な流れの水路風の箇所を「保津川下り」が
左側の堤から右側へ渡り切れず・・・ジャンプする体力は無くなっていた
上流から川岸を、2~3度は濡れないようカメラを杖で掲げ立ち泳ぎで対岸へ泳ぎ着く・・・体力の消耗が激しい・・気力が萎えて来た
断念して暫くすると保津川下りの第1陣が・・・・

これも小さな(自身にとっては大きな)出来事・体験でした

JAXA(宇宙航空研究開発機構)と言えば「内之浦」それで高知県須崎市の「浦ノ内」を想い出し

JAXA(宇宙航空研究開発機構)と言えば、「内之浦」
内之浦」と言えば高知県須崎市の「浦ノ内
住んだこと無し、行ったこと無しですが想い出は有ります
生まれ故郷の徳之島から親の仕事の関係で一つ北の奄美大島に移り後々含めて奄美大島内では3カ所で住むことになりました
兄弟もそれぞれ進学のため離島、両親も仕事で島を離れて
中学生になると大家族だった生家には80代の祖母だけが
そこで先に兄が、兄の中学卒業後は変わって当方が生家で祖母との二人暮らしをすることに
その頃の中学校は近くの二校が統合され各々の集落の中間に有った。スグ近くの白浜にはアダンの木が茂っていました。毎日ソコソコの距離を自転車で通学です。
未だ米軍統治下より日本復帰後、数年経過した頃です。
そのせいでしょうか、内地(本土)の先生方が奄美群島内に派遣されて教育振興?なる取組が有ったのではないでしょうか。
その一貫として「文通」を勧められました。
その時、紹介されたのが高知県須崎市の中学生でした。
田舎っぺで他人様に手紙を書くなんて・・
結局は1~2回で終了! 当方の対応力の無さ・・・から
続いては兵庫県の中学生でした。 親元を離れ仕送りも最小限、世間を全く知らない状況での文通・・・相手も呆気にとられてしまったんでしょう・・・自然消滅に。
さて
年老いて行く祖母の一人暮らしではとの配慮も有ったとは思いますが、もう一つの大きな理由は父親の仕事から来る、今思うと「イジメ」に会い
親元を離れることに
先に祖母との暮らしを送った兄は高校受験の最中に病に倒れ、合格はすれど入学当初より1年間の休学に・・・病因は「十二指腸潰瘍」
後になって推察することになりますが「ピロリ菌」が災いしたのでは?と
その昔、3代で1ダース以上が大きくも無い生家で一緒に暮らしていた時は頻繁に汲み上げて自然と洗浄もされ、年に1~2回は井戸の大掃除も行われていた。 それが二人生活となれば全くの溜まり水の井戸
スグ近くには外便所が・・・しかも汲み上げる人は居ない
又スグ近くには使用はしてないが以前の豚小屋のあとが
敷地に沿っては小川が、大雨時には石垣の間から川水が流れ込んで来て井戸水が濁る
恐らくは井戸水の汚染に衛生意識の薄さも食の細さに影響かと
兄は出される食事には毛嫌いしなかったと思います。 性格的にも。
さて当方は食べれるものは、火を通した御飯と味噌汁・玉子焼きにフリカケ・缶詰・佃煮類と限られていた。 それも少しずつ
用を足して洗うに、洗面器の水で手洗いで・・・食べれないとの思いが。
恐らくは栄養失調につながったんでしょう
グーグーお腹が鳴る訳では無いが3時限目以降、お腹が痛くていたくて大変だった
兄の1年間の休学により、後に同じ高校の3年と1年と在籍することに
下宿先は8畳間の一室に4人の高校生、机は各自L字型廊下に並べる高校入学早々、兄と一緒の1年間は下宿先のおばさんが昼の弁当も用意してくれました。 決して御馳走とは言えないが、それまでの自分に比べたら栄養満点だったのでしょう。
高校入学時に41Kg弱の体重が1年後は48Kg超に増えた状況から考えても? 今でも2~3Kg増えただけですから・・・
弁当も含めて3食のうち2食にはサバの煮もの・焼き魚が有りました。
栄養失調だったせいか、毎回のサバでも美味しくいただけました。
本当にお世話になりました.
お陰様で、至って元気に過ごしております。