「奄美大島」カテゴリーアーカイブ

血圧測定結果、最高血圧・最低血圧・脈拍数=155・91・57。30年以上前の集団検診で指摘された最高血圧180台の生活習慣病が改善された?

先程、手首式血圧計で血圧測定高血圧 独り言相変わらず、正常範囲とか言われてます血圧値からは上方にズレる
然しながら長年ずっと、より高い血圧を自己の通常血圧と誤認して来た身にとって更には年齢も考慮すると大丈夫だと思う
見方を変えれば30年以上前の集団検診で指摘された最高血圧180台の血圧より改善された?
数字のマジックとは言え、随時自分で測定し日々の血圧状態を知れば緊張の最高潮時点での健診・・での血圧測定値は絶対的な数値では無いハズ・・逆に低めに方もおられる由・・お医者さんを前にして御安心なさるのかも・・
dsc_004201

最高血圧・最低血圧・脈拍数 = 155・91・57

こじつけでの一言
圧力・・体内での血流の圧力が血圧か?
気圧・・大気による圧力か?
今年も9月に入り台風がやって来ました
生まれ育った徳之島・奄美大島は台風銀座と称され本土の九州・四国・本州に近づく前から台風が密集してやって来た
テレビは勿論無く、電波状態が悪く聞き取り難いラジオから聞こえて来た
台風の気圧が何ミリバールと・・
単位の数値は同じなれど何時しかヘクトパスカルと表現されるようになった
奄美群島を通り過ぎて本州に上陸する際は殆ど気圧が弱まって行くのは何故だろうとか・・

更なるコジツケになりますが、今回の測定値に台風の影響分有りか?


住宅リフォーム は 工務店エネシスポート 京都府亀岡市 へ
ESP - ENESYSPORT

 

今回は一つ「旅」&二つ「ネット・サイト」&三つ「東・西・南・北」を組合せた複合検索語句での結果は?

沖縄は近かったが未だ訪れていません
すぐ北隣りは与論島そして沖永良部島、その北隣りは生まれ故郷の徳之島その北に奄美大島・喜界島・加計呂麻島が位置しています
生まれた頃は、これらの地域は敗戦での終戦で米軍の統治下
幼い頃に、与論島から北側の奄美群島は先に日本へ復帰となった
遅れて後に沖縄県も日本へ復帰となる
子供ながらに復興事業・振興事業なる「ふっこう・しんこう」の言葉をきいたもの。
いま正に日本に接近したり上陸したり例年に無く台風が多いですが、沖縄地方・奄美地方は毎年のように多くの台風に見舞われていたもの
台風銀座と言われる所以でしょう
加えて米作り・稲作も年2回の二期作ゆえ台風の被害には気を使っていたもの・・稲の品種のことだったんだろうか「ノーリン・・ゴウ」とかは何度も耳にしました
今、思うと「農林XX号」だったか・・農林水産省で管理する品種呼称?
要は風に強く収穫量が多く短期間に収穫出来て云々の品種だったか?
或いはサトウキビの品種だったか、まく農薬の種類だったか「ノウリン
・・・・・・・・・・・・・・・・
さて日本も広い、北の方面で北海道は行きたい気持ちは有れど未だに
ちょうど1年前、9月1日より「青春18きっぷの旅」に出掛けました


「青春18きっぷ」の旅 ぶらり気ままな一人旅


JR「仙台駅」 1日目終了、後ほど仙台駅近くで仮眠をとることに


東北は宮城県仙台市、JR「仙台駅」近くを散策


興奮して気が休まらず満足に仮眠もとれずも取り敢えず仮の仮眠を



東北は宮城県仙台市、JR「仙台駅」近くの「半田屋」にて食事
カレーライス に 豚汁
数時間前にも「半田屋」にて塩ラーメン を


24Hオープンの此処、マクドナルド店にて休憩


JR「仙台駅」周辺を散策 ここに
仙台市地下鉄東西線 2015. 12. 6開業、開業まであと 95日・・との案内表示

(追伸 メイン・ブログの投稿記事へのリンク)
宮城県仙台市の地下鉄東西線、本日 営業運転スタート。
あの案内表示はホンモノだった


続き九州・福岡県の博多駅まで鈍行・各駅各停普通列車主体の
従い当初希望の、最北端更新?はならず
結構大袈裟も小生にとっては一大事、以前に震災前ですが仙台から出発して牡鹿半島を沖に金華山を見ながらドライブしたことが有ったのが我が人生で最北端への旅

近場ながら日頃は文字通り東西南北へとハイキングサイクリングを・・一番?二番?三番の目的は
体力維持・高血圧予防の為の運動・ストレス軽減・極く近場の町並み散策でしょうか
本当は日本全国の東西南北の東端・西端・南端・北端のみならず地方・地域全域を・・・余裕が全く無いため叶わぬ夢・・・
あの世への夢の手土産に・・・

さて当記事のタイトルに掲げて有ります
一つ「旅」&二つ「ネット・サイト」&三つ「東・西・南・北」を組合せた複合検索語句での結果は?

旅ネット 東(または西・南・北)
旅サイト 西(または東・南・北)

でネット検索結果に小生自身もビックリ・・小生運営のサイトが現れた

ESP - ENESYSPORT

複合キーワード「旅ネット 日本」や「旅サイト 日本」でネット検索、オリンピック日本代表で無いが顔を出した。「ジャパン」には縁遠い

リオ・オリンピックも終わり日本選手のメダル獲得数云々、一先ず成功裏に終えたみたい・・何せ、4年後の次回は東京オリンピックだし・・
ソコソコの成績でないと一気に成績アップでは如何に国内開催とは言え、少々勘繰りたくもなる・・でも、今回は着実な強化策が実ったみたい
素直に次回、東京オリンピックを迎えられそうデス

前の東京オリンピックの際は、高校生だったハズ?
「ハズ」なのは、1%位のハズレ確率が有るのではと保険をかけた次第
当時から物忘れが悪い?よりも記憶力が無いので身近なこととは言え100%は有り得ません。 悲しいかな・・
重量挙げの三宅選手水泳の木原選手奄美大島に来ていたし、
木原選手は高校のプールを使用しての水泳練習だったのでは?

因みにシドニーオリンピックで金メダリストに輝いた高橋尚子選手は生まれ故郷の徳之島でも練習し「尚子ロード」が誕生?
土木予算で出来た道路でなく尚子さんの名誉ある頑張りで出来た道?
しかも観光資源の一翼を担っている様子で・・

今回のオリンピックでも、オール日本・オールジャパンなる応援言葉が聞かれ関連ページがネット上に大量にアップされています
かたや当方で連携して運営するグループサイトも多いしページ数も多い
当ブログに投稿済みの記事数も相当な数になります
ところが「ジャパン」なる表現は、有ってもリンク先くらいでしょう
ですから「旅ネット ジャパン」や「旅サイト ジャパン」では顔が全く見えないのも当然かもネ
所で「旅ネット 日本」や「旅サイト 日本」の検索結果では目立つ位置に
国を代表する「日本」で現れる? か?お化けか? この瞬間は現実なり・・・不思議だが事実なり・・恐れ多いこと故、喜んでいいやら?

何で? 何故だろう? きっと・・
米軍統治下より日本復帰なった旨の表現
日本一高い標高、日本国内、日本本土、東日本、西日本・・などで
日本」なる表現が含まれているからでしょう
それに増して「旅ネット」や「旅サイト」のキーワードが結構浸透しているみたいで、それらと恐れ多くも「日本」との組合せ複合語のキーワード検索結果だからかも・・・明日は、どうなるか分かりませんが・・


ESP - ENESYSPORT

サトウキビ担ぎ、飲み水・五右衛門風呂水を天秤棒で。カマド にハガマ、プロパンガス・薪

幼い時から小柄で華奢な体格だった
特に運動・スポーツの類いとは無縁の人生
それでもココまで来たもんだ
中学校3校目、生家に戻り祖母との生活も有った。
集落の地区別の駅伝大会に合わせて数日の練習の後、いざ本番
競走なんて初めて、ペース配分なんて分かりっこ無いものだからスタート早々は行けた
応援を受けて力以上・実力以上の走りでスグにエンスト気味となった
世の中、上手い具合に行かないもんだ。
そんなに甘くはないぞ!知りたまえと知らされた

高校時代、最初の長距離(10Km位?)の行事が有った。
全く走ったこと無いのにソコソコの順位で自分でもビックリ・・何より、その距離を走れたことが不思議だったナァ
と言っていると翌年は順位を2倍以上の位置に落とした・・ソレッ、見たことか
尚、3年目は覚えが無い
受験を控えているとかで免除だったんだろうか
或いは天文学的な順位ゆえ自分で記憶から永久追放処分にしたのだろうか

親元は離れていたが叔母家族は近くに
また親戚のサトウキビの収穫の手伝いもしたり
サトウキビを束ねて担いで運ぶに肩にくい込んで痛いのでタオルで肩にあてて凌いだりしたもの

少し遡り、最初の中学校は生家の有る島(徳之島)のスグ北の島(奄美大島) の、当時は村内全体が陸上の交通機関の無いところでしたネ
今では道路も整備されている?
陸上の交通機関も有るのかも知れない
当時は湾内に点在する小さな集落群をジグザグにポンポン船が寄港して終盤は外海に出る
そして奄美随一の大都会?へと向かったのでゴザイマス
今では陸上交通の便も飛躍的に改善されてのいるにではないでしょうか?
当時は整備の行き届かない雨が降ると泥んこのデコボコ道を幹線道路?では今、希少価値高騰のボンネットバスが・・走っていたんだっけ
何でも新車購入では無く中古バスのオンパレード
あの道路状況では新車投入しても1日で半値評価に落とされるでしょうネ
本当の話、小生自身2〜3回はバスを下りてぬかるみに嵌まったバスを押したことが有ります・・
男性は大人に混じり生徒も。
小学高学年〜中学低学年まで、父親の赴任先で借家住まい。80戸くらいの小さな集落でした
いつの日か?初めて化石燃料に分類されるプロパンガスが我が家に入って来ました。
大家族も数ヶ所に分散、既に5人に急減していた
でも小さなボンベでは足らない。あくまでも燃料のメインは薪なんです。
土で型どり固めた昔ながらの竈(かまど)に薪をくべる。 勿論、五右衛門風呂の燃料も薪がすべて
当時、何となく興味をもって見ていたモノが有ります・・
飯を炊く際は、例のカマドに載せた羽釜を使うのですが木製の厚く重たい蓋を被せる訳ですが・・何故かゴム製?樹脂製?のホースらしき部品をハガマと蓋との隙間に挟んだら、美味しいご飯が炊けると売り込まれたのか・・一時期見かけた
因みに富士山頂では気圧が低くて沸点が低いゆえ半煮え?半炊き?のご飯いになるらしい
そう言えばシンプルな方式の圧力鍋が我が家にやって来たのもこの頃だった
先程のホース状のパッキンも羽釜と木製のハガマ蓋との密閉度を高めて蒸気漏れを防ぐ意味合いが有るとの触れ込みのせいか
実際にはスグに消え失せた。面倒な割には美味しいご飯には目立つ効果は無かったはず
兎に角、部分的補助的とは言えプロパンガスの登場は我が家始まって依頼の文明開化の印なのです
恐らく、そのプロパンガスのボンベは遠く離れた湾外の大都市?(今の奄美市)からポンポン船で運ばれて来たものでしょう
この時点では未だに水道は無し、井戸も無し
従い恐らくは300メートルほど離れて無いがいたで有ろう湧水の水汲み場が有った。
父親は仕事で家の作業などする余裕は全く無し、母親は家事の合間に本場大島紬の機織りに精を出す
せめて出来ることは水汲みくらいだった
体格面では全く自信無くとも天秤棒の前後にバケツを架けてバランスとりながら溢さぬよう気を配りながら運んだ
回数を1回増やして頑張ると喜んでくれた
五右衛門風呂を沸かす回数も最小限、何故なら風呂釜と予備にバケツ2杯分の水も外から組んで来ないと・・
飲み水の汲み場よりは近いところを川が流れていた
水量も豊かで何より透き通った流れの川水です
先程登場した天秤棒でバケツ2杯ずつ4回ほど往復したのではないでしょうか

そして中学校2校目では又しても小さな集落での生活でした
水汲みの経験は無し・・簡易水道が来ていた?
記憶がハッキリしない
この時、初めて黒電話が我が家にも・・第2の文明開化の到来でした・・自宅から電話架けられるなんて・・
でも電話をかけることなんて無かったと思う
僅か一学期間で後にして親元離れて生家にて祖母との二人暮らし・・3校目へ

自身の備忘録として綴っております
コンテンツ量も考慮して、冗長な思い出を書き記してアップ、単語・語句を散りばめて・・
検索にキャッチされん事を期待しつつ長々と

奄美大島のマングローブの群生地(鹿児島県大島郡、旧住用村)、珍しい光景だったが今 国内では貴重な風景の観光資源に

最近、何故か旅行会社の店頭パンフレットや書店での離島観光図書で奄美大島のマングローブ自生地の案内を見かけることが何度か有りました。
そうだ、初めてマングローブの群生地を見たときの印象が思い出された
もう半世紀以上も昔のこと、別の行政村に住んでいて隣接する行政区の鹿児島県大島郡住用村に何度か足を運んだ事が有りました
所謂、鹿児島県の奄美大島の島内での話です
既に10年程前に、奄美大島に存していた名瀬市・笠利町とで市町村合併により奄美市となっている
旧住用村時代、生まれ故郷の徳之島にでは殆ど見かけなかったミカン・スモモが多くとれる地区だった
周囲は山が多く、奄美群島の中でも一番の流量の多い大きな住用川が流れていた
その河口一帯がマングローブの群生地、如何にも奇妙な木々が生えている
入江・湾へ住用川から泥が流れ込んで湾内の奥まった所が遠浅な泥地なのか・・しかも潮の満ち引きで絶妙の塩分濃度の海水と真水の混ざり合いから育まれた植物の類なんでしょう
河口周辺は比較的、中背のジャングル風の成長・・沖合に進むにつれて背格好が低くなり密集度も低くなって行く
いよいよポツンポツンと苗木を植えたばかりの小さな木が海の中?川の中に顔を出している
勿論、満潮時・干潮時には大潮の時は隠れたり見える背丈が変わって行ったことでしょう
慣れない当方にとっては猛毒のハブの存在が気になったもの
当時は観光資源と言える存在では無かったマングローブの林?森?
確かに珍しい木々で海外の方では大規模なマングローブの密林を見ることも出来ようが日本国内では旧、住用村でしか・・・

当時、住んでいたのは隣村、そこの村内も湾内に点在していた集落は陸上の交通機関は無く移動は湾内の集落をジグザグに対岸同士の集落を寄りながらのポンポン船の利用だった
村内の各集落を連絡寄港してイザ外海に出る、そして奄美大島随一の都会?の旧名瀬市(現、奄美市)に向かうことになります
昔、小学校の修学旅行では学校近くのは波止場?桟橋より生徒が乗り込んだポンポン船は直接に湾を出て外海へ
然しながら台風接近だったかシケが激しく急遽中断して日を改めての再出発となりました
上下・左右・前後更には斜め方向に、それに波面に持ち上げられ次には海面の急降下で無重力状態に
もともと船旅になれず船酔いする体だったのが猛烈な船酔いにモドすものも無くなり終いには青い?胃液を絞りに搾っていた
初めて色のついた胃液をみた感じだった

尚、親元から離れて徳之島の生家で祖母との生活をしていた中学校の修学旅行の際も鹿児島港への到着が数時間も遅れ(出発が遅れ)て一日目の鹿児島市内での見学予定が熊本市内での同様の見学に振り替えられたりしたことも有りましたネ

ところで先の村では当時、中南米への移住の方々を集落の多くの住民がポンポン船に向けて色とりどりの紙テープを投げて必死に別れを惜しんで激励していたことが何度か有った
移住者の家族を乗せたポンポン船も応えて2~3回周回していましたネ
なんでも聞いた話では、その後神戸の方で移住に向けての事前研修・準備が予定されていたらしい
移住された家族の、その後の暮らしはどうだったんでしょうか
知る由も無いが・・・

黒潮の森 マングローブパーク (道の駅 奄美大島 住用)