最近、何故か旅行会社の店頭パンフレットや書店での離島観光図書で奄美大島のマングローブ自生地の案内を見かけることが何度か有りました。
そうだ、初めてマングローブの群生地を見たときの印象が思い出された
もう半世紀以上も昔のこと、別の行政村に住んでいて隣接する行政区の鹿児島県大島郡住用村に何度か足を運んだ事が有りました
所謂、鹿児島県の奄美大島の島内での話です
既に10年程前に、奄美大島に存していた名瀬市・笠利町とで市町村合併により奄美市となっている
旧住用村時代、生まれ故郷の徳之島にでは殆ど見かけなかったミカン・スモモが多くとれる地区だった
周囲は山が多く、奄美群島の中でも一番の流量の多い大きな住用川が流れていた
その河口一帯がマングローブの群生地、如何にも奇妙な木々が生えている
入江・湾へ住用川から泥が流れ込んで湾内の奥まった所が遠浅な泥地なのか・・しかも潮の満ち引きで絶妙の塩分濃度の海水と真水の混ざり合いから育まれた植物の類なんでしょう
河口周辺は比較的、中背のジャングル風の成長・・沖合に進むにつれて背格好が低くなり密集度も低くなって行く
いよいよポツンポツンと苗木を植えたばかりの小さな木が海の中?川の中に顔を出している
勿論、満潮時・干潮時には大潮の時は隠れたり見える背丈が変わって行ったことでしょう
慣れない当方にとっては猛毒のハブの存在が気になったもの
当時は観光資源と言える存在では無かったマングローブの林?森?
確かに珍しい木々で海外の方では大規模なマングローブの密林を見ることも出来ようが日本国内では旧、住用村でしか・・・
当時、住んでいたのは隣村、そこの村内も湾内に点在していた集落は陸上の交通機関は無く移動は湾内の集落をジグザグに対岸同士の集落を寄りながらのポンポン船の利用だった
村内の各集落を連絡寄港してイザ外海に出る、そして奄美大島随一の都会?の旧名瀬市(現、奄美市)に向かうことになります
昔、小学校の修学旅行では学校近くのは波止場?桟橋より生徒が乗り込んだポンポン船は直接に湾を出て外海へ
然しながら台風接近だったかシケが激しく急遽中断して日を改めての再出発となりました
上下・左右・前後更には斜め方向に、それに波面に持ち上げられ次には海面の急降下で無重力状態に
もともと船旅になれず船酔いする体だったのが猛烈な船酔いにモドすものも無くなり終いには青い?胃液を絞りに搾っていた
初めて色のついた胃液をみた感じだった
尚、親元から離れて徳之島の生家で祖母との生活をしていた中学校の修学旅行の際も鹿児島港への到着が数時間も遅れ(出発が遅れ)て一日目の鹿児島市内での見学予定が熊本市内での同様の見学に振り替えられたりしたことも有りましたネ
ところで先の村では当時、中南米への移住の方々を集落の多くの住民がポンポン船に向けて色とりどりの紙テープを投げて必死に別れを惜しんで激励していたことが何度か有った
移住者の家族を乗せたポンポン船も応えて2~3回周回していましたネ
なんでも聞いた話では、その後神戸の方で移住に向けての事前研修・準備が予定されていたらしい
移住された家族の、その後の暮らしはどうだったんでしょうか
知る由も無いが・・・
熊本・大分地方での地震が続く
頻発する地震に、いつ収束するか分からぬ中での避難生活の方々のご苦労・大変さはいかばかりか・・
先ほどは鹿児島十島村諏訪之瀬島 方面でも震度を観測したとのこと
震源地はトカラ列島 近海らしい・・これ以上広がらなければイイが
以前、十島村 に係る記事を投稿しました。 次のリンク先記事です
台風15号の影響で薩摩地方を中心に未だに停電らしい、十島村・三島村の歴史の一端を知るキッカケに
===== 記事内容を此処に再掲します =====
台風15号の影響で鹿児島県内では薩摩地方を中心に未だに停電が続いている所もあるとのこと。
思えば台風銀座と言われる故郷の徳之島・奄美で高校卒業まで生まれ過ごした当時も台風が近づく度に停電の心配をしたものデス。
いざ停電となれば応急用に懐中電灯(よく錆びついた)を用意はすれど照明用の明かりは専ら「ローソク」頼みだった。
カンテラも無いでは無かったが・・・
極く一部を照らすのに細いローソクなので持ちが悪い。 すぐに次のローソクに替えないと・・
雨戸の外側はゴーゴー、ヒューヒュー、キューキューと風の音、室内に漏れて吹き込んで来る。
ローソクの火が消えないように置き場所に幾分の気を使う。
鹿児島地方の今でも停電中の地域ではローソクのお世話にならざるを得ない場合も有るとのこと、早く復旧して欲しいですね。
奄美群島で暮らしていて稀に十島村や三島村の名前を聞いたりしたことが有っても、具体的に知ることも無かった。
奄美群島だけでも奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島ほか
住んでいたのは奄美大島・徳之島のみ、従い他の島のことは知る由も無い・・が、それらの島々から同じ高校に入学する生徒は多い。
さて鹿児島へ或は鹿児島市経由で関西方面・東京へとなると通常のケースでは上り下りとも夜間に種子島・屋久島近くを通過する。
一度は鹿児島への船旅が時間的に大きくズレて、明るい内に種子島を遠くに目にすることが有った。
ところが十島村(としまむら)・三島村(みしまむら)は?・・コースからも大きく外れていたんでしょう!
姿を見ることは無かったんです。
先程、Wikipediaで調べて見ました。意外な記載があったりで・・参考になりました。
鹿児島市にて暮らしたことが有りますが、自宅のスグ近くに住んでいた方が十島村?三島村?の村役場に勤めていた職員でした。
当方も元々は島出身ながら村役場・町役場は村内・町内に有ったし・・全国的にも普通のことでしょう。
それで何とも不思議な思いがしたものです。
ようやく確認出来ました。十島村・三島村共に村役場は鹿児島市内に有る由。
戦前までは三島村地域を含めての十島村(じっとうそん)だったらしい。
しかも最も興味深く感じたのは、その戦前の十島村は大島郡十島村だったとの記載部分。
九州本土の薩摩半島からは南に位置する離島、遠く離れた方からは現在の奄美群島も十島村・三島村も似たような位置感覚かも?
当方も参考になりましたが、ご興味有る方は以下のWikipedia(ウィキペディア)を参照して見られたら・・如何!
鹿児島県
三島村
竹島[たけしま]・硫黄島[いおうじま] ・黒島[くろしま]
十島村
口之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島など
三島村(みしまむら) – Wikipedia
十島村(としまむら) – Wikipedia
大島郡 (鹿児島県) – Wikipedia
和服姿で人力車に乗ってバックは屈指の景勝地、京都嵐山・渡月橋
竹林の小径で記念のショット、レンタル和装でしょうネ
今時の古都・京都観光では若い女性は勿論、お相手の男性もレンタル着物を着ての体験旅行が多く見受けられます
着慣れてないハズなのに・・軽々と・・ご心配無用
十二単とかではなくて少々シンプルみたい
まさか化繊の着物ではないと思いたいが・・・
一昔前は着物の需要も相当に有ったんでしょう
京都の織屋さんも、もっと繁盛していたのでは?何せ日本文化の中心だもの・・
一時は郷里・奄美の「本場大島紬」も機織りが盛んだった
生家でも桑の葉を摘んで来て蚕を飼い、繭を大きな鍋の熱湯に入れ生糸を得ていたことも。
徳之島から奄美大島に移り本格的な農作業と共に出来なくなった
それから数年して機織り工場が進出、母親も昼は織工場で夜は狭っ苦しい炊事場の横の機織り機でカッタンコットン遅くまで織っていた
しばらくして所謂、「離島ブーム・島ブーム」らしき時代が到来
「島育ち」「島のブルース」やら・・・
それも着物の需要が落ち込んで行くと・・・
未だに収束方向が見えず、新たな地震も取り沙汰されている状態みたい
通常のケースなら一点集中的な震源地なのが広範囲にわたり震源となっている
予想・予測も困難な様子・・従来に見られないケースらしい
これまでの被災は勿論、先行きが読めない日々に更には将来の生活の立て直しに不安が一杯でしょう。耐えても頑張っても・・の気持ちでしょう
通常は何とも無い「水」の確保、僅かな量の入手にも苦労されている様子は見るに忍びない
少しでも明るい見通し・・新たな地震の恐れが薄まり余震が収まって行って欲しい
何方かと言うと沖縄県 に近い徳之島 で生まれ鹿児島県、奄美諸島 の徳之島・奄美大島 両島の小さな集落を転々 とした
高校時代は奄美随一の都市、名瀬市 (現、奄美市 )で過ごし本土に出ても初めは九州・鹿児島県鹿児島市内 での生活
その頃は関西・関東 の本土の兄弟・後に移り住んでた親元へ行くのに何度か九州地方の交通機関 を利用していた。勿論、九州新幹線 や九州自動車道 が利用出来ない頃。 今はJR 、当時は国鉄 さんでしたね
関西 または関東 方面への移動には専ら国有鉄道 の夜行寝台急行列車 だった。 特急列車 には乗れません! 特急券が必要でしょう!
今で言うグリーン車 は無かったが座席指定 で無く、いつも自由席 だった?でも寝台だから指定席 だった?
記憶はオボロゲ、1等車・2等車の違いだった?
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実は奄美群島 から鹿児島港or神戸港中突堤 までの船室 には1等車・2等車が有った
一番安い料金の船室利用だったが船便では3等室だったかも・・
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上下だったか上中下だったか、いつもお安めの寝台利用でした・・でも、いつもワクワクしたもの・・長距離の列車の旅
一度だけ豊肥本線 経由、四国の愛媛県八幡浜市 へ
一度は阪神から鹿児島市へ日豊本線 を利用しましたが、他は鹿児島本線ルート でした
今回、未だに続く大地震で鹿児島本線・豊肥本線は大きな運行規制を設けている由
本州や福岡方面より熊本・鹿児島方面への直行は出来ないようだし、突然の事態に利用客の方々も大変な事です
地震発生地域の方々は生活基盤を奪われ たり少なからずの各種の生活不安が・・早く落ち着いて欲しい
未曽有の規模の地震・それに伴う大津波が襲って来た東日本大震災地域の方々も未だに大変なご苦労をなさっている
某大手商社がサトウキビの搾りカスや従来は利用されて無かった部位も使用して燃料にする事業を興すらしい
彼此もう60年ほども昔になるでしょうか、小学校入学前後のことになりますが生家のスグ近くに小さな製糖工場~本当に小さなミニ工場が有った
恐らく集落単位での黒糖生産工場だった?。それも長くは残らずスグに目の前から消えた
でも懐かしい!サトウキビを絞る為の回転機を牛に引かせていた。 当時でも珍しい光景だった。 収穫期の僅かな期間だし~。
絞り機の回転軸の周りをグルグル回らせてキビ汁を搾りだす。
その絞りとったキビ汁をパン(例えば洗濯機の下に漏水防止に敷く器・・これを大きくしたもの・・トレイ?)の中で煮えたぎらせ掻き混ぜながら黒糖にして行く。 本当に甘~い香りのプンプンする現場だった。
”絞りかす”の行方は分かりません。各家庭での燃料は薪だったし肥料は他に使っていたみたい・・かと言ってワザワザ捨てていた事も無いのでは? 幼い頃の記憶ゆえ行先は I am sorry. I do not know !
やがて本格的な製糖工場が出来て、集落のプチ製糖工場は姿を消して行った訳です。
その前後は生まれ育った徳之島を含めた奄美群島(他には奄美大島・喜界島・沖永良部島・与論島・加計呂麻島)が沖縄地域より先に米軍統治下から日本へ返還・復帰した頃
恐らくは本土よりの資本が製糖工場に投下されたからでは?
急に収穫されたサトウキビを満載したトラックが行き交うようになる。
遠く離れた製糖工場に向け狭いデコボコの泥んこ道を走ることに。
復帰に係る復興振興対策事業などで、今では道路も整備され短時間での移動が可能になっているらしい
二期作の稲作が主体も本土への移住、特に若者の流出や全国的な稲作生産価格の低下で後継者不足なのでは
砂糖工場も全体的には海外からの輸入品が多くなり・・・加工品や黒糖焼酎に目立つくらいかも
本場大島紬も一時のブームは有れど全国的に和服の需要が減少、更には低コストの外国産紬が入って来たり・・
で大変なのでは・・・復興事業を地場産業と見ていいのか分かりません
さて例の”サトウキビの搾りかす”については一度見学に行った製糖工場で燃料に回しますと聞いたことが有り、集落のミニ工場では見かけなかったので感心した記憶が有ります。
ミニ工場で絞ってもカスには未だに水分が残っている! でも大型工場では絞りに絞っているからだろうと妙に感心していました。
恐らくは今回の某商社の企画でも、それを進化させた事業化でしょう。 発電事業への燃料化?とか
今度はサトウキビの葉っぱ・茎の部分も活用する? ナルホド!
昔、さとうきび収穫の際は先ず茎に近い箇所を鎌で切り取る~次に何本も有る葉っぱを切り落とす~更にキビの外側の皮を剥ぐ~必要が有れば適当な長さに分割
この段階で利用出来なかった部分も燃料に利用する訳だ! 確かに葉っぱも自然に枯れたら燃えやすいものだから
ついでながら蘇鉄の棘の有る葉っぱも枯れたら一気に燃える・・五右衛門風呂を沸かす際、燃料の薪への火付けに枯れたソテツの葉をくべたこと有ったっけ。
今では味わえないサトウキビの味
収穫したサトウキビをキビ畑で皮を剥いてしゃぶる・・キビ汁を・・仮にキビを目にすることが有っても、今は歯がボロボロではねぇ~入れ歯では無理だよなぁ~
絞り出したサトウキビの汁から工場で黒糖に仕上げて行く段階での香ばしい温かい出来立てホヤホヤの黒砂糖・・あぁ~美味しかった!
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(京都府)京都市・南丹地域(大阪府)北河内地域・豊能地域・三島地域にて太陽光発電・オール電化・住宅リフォーム+ソフト開発の[ソフト工務店]エネシスポート(亀岡市)~因みに太陽光発電・発電量推定ソフトも自作でシミュレーションも色んな角度で