先の奈良方面へのサイクリングでは懐かしさから国道163号線から、わざわざ「生駒イトーピア」団地(鹿ノ台)に立寄りました
勿論のこと、入口からの長い急な上り坂が残っていました。
分譲開始早々の頃でしたので一部の区画に新築の戸建住宅が建ちつつある状況でした。 大型分譲地ながら更地が目立つ頃でした。
35年の年月を感じつつ少しばかり団地を・・・
その後に「平城ニュータウン」の開発も進み或るときの思い出です
(余談ですが、高校時代に同級生と二人で鹿児島市より出張診察に来られた先生の診察で「鼻中隔湾曲症」と、スグに鹿児島市へ戻るが手術を受けるか否か回答を求められ電話代を気にしつつ親に連絡、手術へ)・・・
物件(土地)を求めて近くの集落の所有者宅を訪問営業です
何度かお伺いしたことになりますが、一度は大変なことに・・
当時は鼻づまりが酷くて、守口市の耳鼻咽喉科に通院していて直前に「鼻中隔湾曲症」の手術を受けたばかり・・・おまけに風邪気味でした。 相手の方は牛小屋にて作業しながら対応してくれましたが、何せ頭が朦朧として大変でした。 もともと手術直後で詰まり気味の鼻が風邪気味で更にドン詰まりなんです。 必死の思いで話しかける口で息をしつつ相当な熱の頭を何とか支えようと首も頑張ってくれたみたい。
その中で話して頂いたこと、お相手は初老の方。 実は、お母様が嫁いで来られた際に使用された「お嫁入りの籠」を大事に残しているとのこと、格式を感じた次第です。
その後、恐らくは休日明けだったんでしょう! 耳鼻咽喉科へ・・
先生に言われました「一週間?以内」に手を打たないと耳に異常が・・・「突発性難聴」になるところだった・・・と。 風邪が重なったんでしょう
前から、一度行ってみたいと思ってました、サイクリングで
ずっと前には「大和路」方面へも何度かサイクリングにドライブを・・
今回、以前によく通っていた方面の一つ、木津・奈良方面に
何も無かった要所にコンビニが有ったり、木津交差点周辺が整備され
国道163号線の清滝峠近くを新バイパス道路が、また大阪府の北河内には「第二京阪」が伸びて来て様変わり・・
イオンモールの大型ショッピングセンターも建設中だった
今回のサイクリングで思い出深く、わざわざ立寄った住宅団地が有ります。 それは生駒市の「鹿ノ台」、もう35年ほど経つのでは?
殆どしゃべれない自分が営業の世界に本格的?に染まり始めた頃!
某新築戸建住宅会社の現地販売事務所の有った 「生駒イトーピア」
あれから35年程度経過して、年・月日の経った団地の姿を懐かしく・・
前日の午後の早い目に仕事を終え・・思案する
時間的には中途半端みたいな感じがしないでもないですが、2日間共
天気は良好との予報!また本格的な夏場になれば暑くなるばかり・・・
ちょっとした用事も残していたので取り敢えず京都市内へ向かう
用を済ませると気持ちは奈良方面へとサイクリング決行へ
元々仮眠泊のつもり故、荷物らしき携行品は有りません
木津のファーストフード店にて暫し休憩、閉店前に出て奈良市内へ
今度は24H営業のファミリーレストランにお世話になる
朝5時頃は明るい。 さぁ~2日目のスタートですよ、は~いヨ。

夕方、買物しました。 ブログ記事なため・・
此れが、あの昔(50年以上前にお世話になってた「たいのはな」?)
先日、記事に挙げたので記事に因んでのスーパーにての買物品です。
結構、日持ちはするんですネ。 賞味期限はまだ先の日付でした。
食べてみましたが。 いやぁ~!甘すぎる・・・もう結構!
これを中学生時代に弁当の「おかず」として好んで?
色・形は記憶と全く同じ・・・この年になり、しつこい甘さには抵抗を感じていますが当時も、これ程までに甘さが徹底していたんだろうか?
いくら何でも、これ程ではなかったんでしょうヨ
今は大量生産の時代。 この量でこの値段。
当時、近くのお婆さんが切り盛りする小さな小さな雑貨・食料品店で求めたり、3~4Km離れて自転車通学の中学校の売店で買ったり・・・
恐らくは写真のパックの量の4分の一くらいだったか10円くらい?
弁当の白飯に、この「桜でんぶ」・・・尤も当時は「たいのはな」との記憶が・・・強烈ゆえ「桜でんぶ」とのギャップに戸惑う
辞書らしきもので調べてみると残念ながら「たいのはな」では・・・??
ただ「桜でんぶ」は「鯛の白身・・云々」とは散見されrた
まんざらでは無いが、さては当時、覚えた「たいのはな」は商品名だったかも知れませんネ
「たいのはな」「ご飯の友」とかのフリカケ「福伸漬け」に”玉子焼き”たまに「焼き味噌」、「味噌炒めの落花生」これらのオカズに弁当箱のご飯が定番・・・これで9割以上の昼ご飯でした。 所謂「桜でんぶ」には多いにお世話になったものです。
校舎のスグ裏に小川が流れ、全くの田舎ゆえ水の流れは綺麗でした
従い弁当箱の蓋で川水を汲んで飲み水に・・・
今思えば、恐らくは一番の成長期の中学2~3年に・・・栄養失調???
田舎ではその頃、よく出回っていたのが「ジュースの素(もと)」、色とりどりのジュース粉末・・本来は水で薄めて飲むものでしょう。 甘さも有ったんでしょうが食べ物みたいに粉末を食べていたものです。
さすがに頭が変に調子悪くになることも有りましたね。
そうそう、「塩辛」も・・・今の高血圧は当時からのお導きでしょう
あの頃、中学2~3年の頃
台風銀座ゆえ年に何回も接近または上陸していました
じっと過ぎ去るのを空しい状況で耐えていました
当時は藁葺からトタン屋根に葺き替わっていた、決して大きくはない一軒家で祖母と二人
以前は大家族で一つ屋根の下で住んでいて、小学低学年までのこと。
兄弟もその時点では精々のところ高校生、通学ゆえ寝泊りは皆一緒
台風の前後も含めて、全ては親や上の兄弟が対応していたと思う
雨戸を内外に竹棒をわたし固定する。 屋根の補強。
浸水した泥水で汚れた井戸の浄水
当時は農作業も家計の主要な稼ぎの手段だったので見回りなど
他が島を離れ、逆に帰島して年老いた祖母との二人暮らしでは台風の襲来は空しい
雨戸の固定は出来ずガタガタと、玄関の隙間から強風が家の中へ吹き込んで来る
便所は離れで強風の中、そこまでたどり着くのが億劫でなかなかでした
何時もは昼間でもハブが便所に入ってないか、入ってこないか気にしながらも台風の強風・音では更に
勿論、テレビ・ラジオも無い
各部屋には裸電球が一個、40~60wくらいだったか。 明るさが安定しないんです
脈うつ感じだった・・台風の際は、何度も停電に・・ハイ「ローソク」
座机は今に思うと滑稽ですが押入れの上段に、気分変えて下段に
ある時に耳にしたせいかも知れない。
何ワットを超える電球を使ったら捕まるとか?・・・見つかったらどうしよう? 離れて住む親に何て話そう・・・かなり気になりました。
後で九州電力に吸収されたが島内の電力事業者だったんでしょう
状況は変わって来ていますが、長いこと一般電気事業者が当該地域内での電力小売りをしていたハズなので九州電力は当然とは言え、終戦後しばらくは故郷も米軍統治下にあったため九州電力では無かったのでしょう
後で分かることですが島内のみの市場への電力供給、規模の小ささから又技術的な面からも相当に割高な料金・品質上も・・
小さな島での需要とは言え長く細々と連なる集落群、簡易な電柱設置、より低圧での送電、簡易な発電設備 等々
ところで住宅用太陽光発電システムが50年早く普及していたら・・
そして今、太陽光発電システムの御用命はエネシスポート へ
(京都府)京都市・南丹地域(大阪府)北河内地域・豊能地域・三島地域にて太陽光発電・オール電化・住宅リフォーム+ソフト開発の[ソフト工務店]エネシスポート(亀岡市)~因みに太陽光発電・発電量推定ソフトも自作でシミュレーションも色んな角度で