「懐かしき想い出・思い出」カテゴリーアーカイブ

台風接近で思い出すあの頃・この事 – 2

あの頃、中学2~3年の頃
台風銀座ゆえ年に何回も接近または上陸していました
じっと過ぎ去るのを空しい状況で耐えていました
当時は藁葺からトタン屋根に葺き替わっていた、決して大きくはない一軒家で祖母と二人
以前は大家族で一つ屋根の下で住んでいて、小学低学年までのこと。
兄弟もその時点では精々のところ高校生、通学ゆえ寝泊りは皆一緒
台風の前後も含めて、全ては親や上の兄弟が対応していたと思う
雨戸を内外に竹棒をわたし固定する。 屋根の補強。
浸水した泥水で汚れた井戸の浄水
当時は農作業も家計の主要な稼ぎの手段だったので見回りなど
他が島を離れ、逆に帰島して年老いた祖母との二人暮らしでは台風の襲来は空しい
雨戸の固定は出来ずガタガタと、玄関の隙間から強風が家の中へ吹き込んで来る
便所は離れで強風の中、そこまでたどり着くのが億劫でなかなかでした
何時もは昼間でもハブが便所に入ってないか、入ってこないか気にしながらも台風の強風・音では更に
勿論、テレビ・ラジオも無い
各部屋には裸電球が一個、40~60wくらいだったか。 明るさが安定しないんです
脈うつ感じだった・・台風の際は、何度も停電に・・ハイ「ローソク
座机は今に思うと滑稽ですが押入れの上段に、気分変えて下段に
ある時に耳にしたせいかも知れない。
何ワットを超える電球を使ったら捕まるとか?・・・見つかったらどうしよう? 離れて住む親に何て話そう・・・かなり気になりました。
後で九州電力に吸収されたが島内の電力事業者だったんでしょう
状況は変わって来ていますが、長いこと一般電気事業者が当該地域内での電力小売りをしていたハズなので九州電力は当然とは言え、終戦後しばらくは故郷も米軍統治下にあったため九州電力では無かったのでしょう
後で分かることですが島内のみの市場への電力供給、規模の小ささから又技術的な面からも相当に割高な料金・品質上も・・
小さな島での需要とは言え長く細々と連なる集落群、簡易な電柱設置、より低圧での送電、簡易な発電設備 等々

ところで住宅用太陽光発電システムが50年早く普及していたら・・
そして今、太陽光発電システムの御用命はエネシスポート へ

台風接近で思い出すあの頃・この事 – 1

台風6号が接近中! 亀岡市でも昼前から雨が降って来ました。
これから暫くは風雨共に強まることでしょう!
台風が来ると各方面で全体的に動きが鈍るもの・・
既に故郷の奄美諸島は通り過ぎたようですが、被害は通過の瞬間の直接的な被害だけで無く前後にわたる。
奄美群島での主な鹿児島航路阪神航路としては奄美大島(名瀬港)・徳之島(亀徳港)・沖永良部島(和泊港)・与論島(与論港)の港が
更には沖縄方面に向かうコースも・・
他に喜界島(喜界港)・奄美大島(古仁屋港)・徳之島(平土野港)が・・・
順調ならば定期の貨客船のはずが鹿児島または神戸から遠すぎるし、各港に立寄って貨客の乗降り・積み下ろしの時間を要する為に全体ではかなりの時間が・・
従い遥か南、遠方の台風でも鹿児島・神戸よりの出港は影響度を予測して控えることになるのでしょう
しかも台風が出発港の鹿児島または神戸を通り過ぎソコソコ経過してから、イザ奄美・沖縄へ・・
モタモタしてその時間が長い台風の場合、一連の待機時間は相当なものでした
我が家は新聞はとって無かったが、公的な場所では或は全国紙ならぬ地方紙の「南日本新聞」をとっていたかも知れない
例え凪いだ海でも誌面に接するには港近くでも1日遅れ、少し離れた辺鄙な所ではもっと・・
それが台風の通過を見合わせている間に一週間前後、遅れての配達だったんでしょう
仮に気短い購読者でも・・・新聞とは・・・ある程度はニュースっぽい情報を発信してくれる媒体と・・理解を示してくれた?
当時、田舎の港から神戸の「中突堤」まで船内で2泊していた。 3等室で横向きに足を曲げたり、帰省シーズンにはトイレのすぐ横で・・
その後、フェリーとか言って速くなり1泊で済ませられるようになった
あぁ~、懐かしいかな! 船旅へ色とりどりの紙テープで見送ったり
凪いでいて船酔いにも対応出来たときの船内売店で求めたカレーライスの味
沖合にての乗下船の際は波打つ中でのハシゴと小舟の大きく不安定に上下に揺れる箇所での危険を感じつつの移動
ある時は一山越えた集落から歩いて港まで、そして船内売店で切り売り「食パン」を求め、ドラの音で文字通りの船出を見物