「各地の地域情報」カテゴリーアーカイブ

未だに続く大地震で鹿児島本線・豊肥本線は大きな運行規制、九州新幹線や九州自動車道は?

未だに収束方向が見えず、新たな地震も取り沙汰されている状態みたい
通常のケースなら一点集中的な震源地なのが広範囲にわたり震源となっている
予想・予測も困難な様子・・従来に見られないケースらしい
これまでの被災は勿論、先行きが読めない日々に更には将来の生活の立て直しに不安が一杯でしょう。耐えても頑張っても・・の気持ちでしょう
通常は何とも無い「水」の確保、僅かな量の入手にも苦労されている様子は見るに忍びない
少しでも明るい見通し・・新たな地震の恐れが薄まり余震が収まって行って欲しい

何方かと言うと沖縄県に近い徳之島で生まれ鹿児島県、奄美諸島徳之島・奄美大島両島の小さな集落を転々とした
高校時代は奄美随一の都市、名瀬市(現、奄美市)で過ごし本土に出ても初めは九州・鹿児島県鹿児島市内での生活
その頃は関西・関東の本土の兄弟・後に移り住んでた親元へ行くのに何度か九州地方の交通機関を利用していた。勿論、九州新幹線九州自動車道が利用出来ない頃。 今はJR、当時は国鉄さんでしたね
関西または関東方面への移動には専ら国有鉄道夜行寝台急行列車だった。 特急列車には乗れません! 特急券が必要でしょう!
今で言うグリーン車は無かったが座席指定で無く、いつも自由席だった?でも寝台だから指定席だった?
記憶はオボロゲ、1等車・2等車の違いだった?
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実は奄美群島から鹿児島港or神戸港中突堤までの船室には1等車・2等車が有った
一番安い料金の船室利用だったが船便では3等室だったかも・・
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上下だったか上中下だったか、いつもお安めの寝台利用でした・・でも、いつもワクワクしたもの・・長距離の列車の旅
一度だけ豊肥本線経由、四国の愛媛県八幡浜市
一度は阪神から鹿児島市へ日豊本線を利用しましたが、他は鹿児島本線ルートでした

今回、未だに続く大地震で鹿児島本線・豊肥本線は大きな運行規制を設けている由
本州や福岡方面より熊本・鹿児島方面への直行は出来ないようだし、突然の事態に利用客の方々も大変な事です

地震発生地域の方々は生活基盤を奪われたり少なからずの各種の生活不安が・・早く落ち着いて欲しい

未曽有の規模の地震・それに伴う大津波が襲って来た東日本大震災地域の方々も未だに大変なご苦労をなさっている

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九州の広い範囲で大きな地震が。大きな地震や余震が止んで欲しい。熊本周辺は幾つか思い出が修学旅行で

九州の広い範囲で大きな地震が起きています
未だに畳みかけるような止まない地震が・・痛ましい状況に・・
早くおさまって、不安感が幾分でも緩和され復旧作業が進むことを願うばかりです

正に今、地震が起きている地方・熊本地域は幾つか思い出に残るところなんです
沖縄県より一足先に日本に復帰した郷里・鹿児島県大島郡の徳之島で3カ所目の小さな中学校に通ってました
その時は、親元を離れ年老いた祖母との二人暮らしだったんです
中学校の例年の行事、修学旅行で熊本周辺へ・・刺激の少ない生活の中、大きな出来事でした
周りでは親が旅行の準備をする中、年老いた祖母に準備を頼ることも出来ず何となく不安を抱えての参加でした
種子島・屋久島近くを通って本土・鹿児島県鹿児島市へ向かう
早々から定期便(奄美群島内の各港~鹿児島港)の大きな遅れが有り、当初予定の鹿児島市の山形屋デパート見物は無くなり急遽変更で熊本市内の大洋デパートを見物
本格的な百貨店・初めて体験のエレベーター・圧倒的に豊富な商品を目にして違う世界?・・発見です
整備の行き届いた大きな公園=水前寺公園、鹿児島市から初めて汽車に乗ったがスイッチバック式鉄道の旅・・
今回の地震で被災した熊本城に行ったはこの時だった別の機会だったか記憶は薄れて・・
いよいよ阿蘇山に・・当時は火口まで行けた!圧倒的な自然の迫力・・まさに修学旅行
ネットで検索して見ると阿蘇・内牧温泉・・確か「内牧」の地名に覚えが有る感じ~恐らく修学旅行で一泊したのは此処だったのでは?
宿で卓球をしたり・・また、初めて瓶入りの牛乳を口にした。 美味しくて2本も飲んだなぁ~
阿蘇の米塚・・都会?本土?には、緑で覆われた綺麗な形の小高い山が有るんだなぁ~と
更に福岡県の久留米市だったか当時は必需品・貴重品だった運動靴月星ゴムの製造工場見学・・修学旅行だもの
記憶は不確か、初日だったか最終日だったか鹿児島市内の鴨池動物園も見学・・・移転して今の鹿児島市平川動物公園
修学旅行どのコースだったかトンネルを通過する度に汽笛に合わせて窓を開閉するのが珍しくも徐々に上手くなって行った

それから数年後、鹿児島市~えびの市~人吉市~熊本市~別府市=フェリー=八幡浜市~松山市~高松市=フェリー=神戸市鉄道・フェリーの旅
一度だけの短いヒッチハイク・・したい気は有っても結局は(か・わ・い・そ・う=オ・モ・テ・ナ・シ)の気持ちからドライバーの方から声をかけてもらっての体験
国鉄(現JR)熊本駅待合室始発電車を待っていたら営業時間外ですよ!と、これまた違う意味での声を掛けられる(ダ・メ=だ・め=NG)の気持ちからか

福岡県の筑豊方面からのドライブ阿蘇外輪山を走行したことも・・見晴らし良い・絶景の雄大な光景・風景を目の当たりにして気分爽快に、もう一度の気分に。

いい思い出を沢山くれた熊本地方・大分地方が今、甚大な被害をもたらして来る連続的な地震に・・襲われています

阪神・淡路大震災の際は、自宅の水屋から食器が落ちて来たし別の場所では温水器からの漏水壁割れの現象を目の当たりに。
更に実家ではブロック塀が倒壊し屋根瓦のズレも発生し暫くは青いビニールシートで覆っていた。 ビニール袋の不足が・・
それでも被害の大きかった地点より離れていたので何とかしのげました
被害の大きかった地域ではライフライン(水・電気・ガスなどに衣類・寝具・休憩スペース・トイレ・入浴、道路や交通機関)の復旧に手間取る

未曽有の規模の地震・それに伴う大津波が襲って来た東日本大震災
現に地震が頻発している熊本県を中心とした今回の大地震

何れも当地・亀岡市は遠く離れていて被災も無く、それで今後の生活面での耐えられないほどの不安を感じる訳では有りません
被災地域の皆さんの一瞬の境遇の変化には何と申し上げて良いのやら・・取敢えず大きな地震や余震が止んで欲しい

ワイド!闘牛大会の思い出。ほぼ四国一周サイクリング、瀬戸大橋・フェリー・室戸岬・高知市・足摺岬・宇和島市・松山市・道後温泉

ワイド、ワイドゥ、ワァ~イドゥ・・・
小さな集落が海岸に沿って細々と長々と(人口少ない島では自慢したくなるような・・長さな~んだ)
砂浜のある辺りで闘牛大会が催されていました。
昔々のことです・・小学校に入る前後の頃だったか、記憶は微かに。
(今では観光施設としての闘牛場が有るようですが・・)
当時は大会用に円形状に木の柵を張り巡らせて、先ずは中央で対峙させる
大相撲仕切り・立ち合いに相当するんでしょう
タイミング良くを突き合わせてイザ!闘いの始まり!
頃合いを見て、夫々の引縄?を外して真剣勝負に・・
力士たる牛の角は予め、鋭く研ぎすまされて・・
・・・
(中略、数少ない娯楽なので観客も大声援・・出場力士?の親戚は、それこそ必死なんでしょう)

~通り一片の表現では、まして表現力に乏しい身では逆効果になってしまいそう~
・・・
1頭が逃げ出す・・円形の柵に沿って逃げ回る
勝者は追いかける場合も、ド~ンと落ち着いている牛もいる
何番かの取り組みが行われていきます
勝者の闘牛の背に跨ったり立ち上がったりでワイドワイドの掛け声や踊りで応援も絶好調
或る時、小学校のスグ近くの牛がすごく強いとの印象が・・残っています
「篠原(しのはら)牛」だった?・・その牛が急に何処かへ行ってしまった
今になって懐かしくネットで検索したら1~2回のトレードを経て「実熊(さねぐま)牛・・実熊号」となって行く
初代の実熊牛らしい。徳之島全島一の栄誉を何度も重ねて行ったらしい・・闘牛大会での横綱を何度も張った訳ですネ
子供ながらも身震いするくらい興奮したものです

就職して1~2年後の夏休みに四国ほぼ一周のサイクリングに出かけました
瀬戸大橋などの連絡橋は未だ架かって無くフェリーを利用して・・
初日は日射病?今風には熱中症?で道端に倒れる・・倒れて行くのは感じたが何せ初めての体験・・ごく自然に倒れる
15分程度だったんだろうか横になったままだった・・交通量は少なくて大事に至らなかった
頭・肩・背中は強い日射で焼けただれたんでしょう・・今も火傷?の後遺症?跡が。
ほぼ一周で距離が長い為、初日は徹夜に近く・・
夜通し走るも遂に海岸にて暫し仮眠を~そして室戸岬見物して高知市に入る
ここで一泊、一路 足摺岬へ向かい岬を見物して宇和島市にて
何処で聞いたか定かでは有りませんが、宇和島は闘牛が盛んだと・・
故郷を離れて久しく「闘牛」にかかわる話は・・何となく馴染みな・・印象
それから年数経って高校野球の観戦で何度も行った阪神甲子園球場だったか西宮球場だったかで闘牛大会が有った由
その大会には徳之島から宇和島からも・・

さて四国サイクリング、宇和島市から松山市
走っても走っても延々とミカン畑が続いていたなぁ~

記念?に「道後温泉本館」に立ち寄り入湯、愛称「坊っちゃん湯」にも入りましたが何せ文才0”ゼロ”故、特別には・・
その後、国鉄(現、JR)の列車のお世話になりフェリーで一夜明かしたのだろうか?記憶は消えてしまった
安っぽいカメラで撮った白黒写真、室戸岬・足摺岬ほかも20年間保有はすれど改めて見ること無く処分済み
写真の代わりに思い出させてくれるは消えることの無い頭・肩・背中の強い日射を真面に受けた火傷に近い皮膚のシミか

あの頃は高血圧の症状は父親のもので自身には無関係だったハズなんですが・・これも時代の流れ・生活習慣の成果物?