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先ほど鹿児島県諏訪之瀬島で震度を観測らしい、昨年の台風15号で十島村(としまむら)・三島村(みしまむら)、十島村(じっとうそん)と大島郡との係りを知る

熊本・大分地方での地震が続く
頻発する地震に、いつ収束するか分からぬ中での避難生活の方々のご苦労・大変さはいかばかりか・・

先ほどは鹿児島十島村諏訪之瀬島方面でも震度を観測したとのこと
震源地はトカラ列島近海らしい・・これ以上広がらなければイイが

以前、十島村 に係る記事を投稿しました。 次のリンク先記事です
台風15号の影響で薩摩地方を中心に未だに停電らしい、十島村・三島村の歴史の一端を知るキッカケに

=====  記事内容を此処に再掲します =====

台風15号の影響で鹿児島県内では薩摩地方を中心に未だに停電が続いている所もあるとのこと。
思えば台風銀座と言われる故郷の徳之島・奄美で高校卒業まで生まれ過ごした当時も台風が近づく度に停電の心配をしたものデス。
いざ停電となれば応急用に懐中電灯(よく錆びついた)を用意はすれど照明用の明かりは専ら「ローソク」頼みだった。
カンテラも無いでは無かったが・・・
極く一部を照らすのに細いローソクなので持ちが悪い。 すぐに次のローソクに替えないと・・
雨戸の外側はゴーゴー、ヒューヒュー、キューキューと風の音、室内に漏れて吹き込んで来る。
ローソクの火が消えないように置き場所に幾分の気を使う。
鹿児島地方の今でも停電中の地域ではローソクのお世話にならざるを得ない場合も有るとのこと、早く復旧して欲しいですね。
奄美群島で暮らしていて稀に十島村や三島村の名前を聞いたりしたことが有っても、具体的に知ることも無かった。
奄美群島だけでも奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島ほか
住んでいたのは奄美大島・徳之島のみ、従い他の島のことは知る由も無い・・が、それらの島々から同じ高校に入学する生徒は多い。
さて鹿児島へ或は鹿児島市経由で関西方面・東京へとなると通常のケースでは上り下りとも夜間に種子島・屋久島近くを通過する。
一度は鹿児島への船旅が時間的に大きくズレて、明るい内に種子島を遠くに目にすることが有った。
ところが十島村(としまむら)・三島村(みしまむら)は?・・コースからも大きく外れていたんでしょう!
姿を見ることは無かったんです。
先程、Wikipediaで調べて見ました。意外な記載があったりで・・参考になりました。
鹿児島市にて暮らしたことが有りますが、自宅のスグ近くに住んでいた方が十島村?三島村?の村役場に勤めていた職員でした。
当方も元々は島出身ながら村役場・町役場は村内・町内に有ったし・・全国的にも普通のことでしょう。
それで何とも不思議な思いがしたものです。
ようやく確認出来ました。十島村・三島村共に村役場は鹿児島市内に有る由。
戦前までは三島村地域を含めての十島村(じっとうそん)だったらしい。
しかも最も興味深く感じたのは、その戦前の十島村は大島郡十島村だったとの記載部分。
九州本土の薩摩半島からは南に位置する離島、遠く離れた方からは現在の奄美群島も十島村・三島村も似たような位置感覚かも?
当方も参考になりましたが、ご興味有る方は以下のWikipedia(ウィキペディア)を参照して見られたら・・如何!

鹿児島県
三島村
竹島[たけしま]・硫黄島[いおうじま] ・黒島[くろしま]

十島村
口之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島など

三島村(みしまむら) – Wikipedia

十島村(としまむら) – Wikipedia

大島郡 (鹿児島県) – Wikipedia

レンタル着物で和装体験「竹林の小径」もイイし、人力車に乗ってバックは屈指の景勝地、京都嵐山・渡月橋も

和服姿で人力車に乗ってバックは屈指の景勝地、京都嵐山・渡月橋
和服姿で人力車に乗ってバックは屈指の景勝地、京都嵐山・渡月橋

 

竹林の小径で記念のショット、レンタル和装でしょうネ
竹林の小径で記念のショット、レンタル和装でしょうネ

今時の古都・京都観光では若い女性は勿論、お相手の男性もレンタル着物を着ての体験旅行が多く見受けられます
着慣れてないハズなのに・・軽々と・・ご心配無用
十二単とかではなくて少々シンプルみたい
まさか化繊の着物ではないと思いたいが・・・

一昔前は着物の需要も相当に有ったんでしょう
京都の織屋さんも、もっと繁盛していたのでは?何せ日本文化の中心だもの・・
一時は郷里・奄美の「本場大島紬」も機織りが盛んだった
生家でも桑の葉を摘んで来て蚕を飼い、繭を大きな鍋の熱湯に入れ生糸を得ていたことも。
徳之島から奄美大島に移り本格的な農作業と共に出来なくなった
それから数年して機織り工場が進出、母親も昼は織工場で夜は狭っ苦しい炊事場の横の機織り機でカッタンコットン遅くまで織っていた
しばらくして所謂、「離島ブーム・島ブーム」らしき時代が到来
「島育ち」「島のブルース」やら・・・
それも着物の需要が落ち込んで行くと・・・

未だに続く大地震で鹿児島本線・豊肥本線は大きな運行規制、九州新幹線や九州自動車道は?

未だに収束方向が見えず、新たな地震も取り沙汰されている状態みたい
通常のケースなら一点集中的な震源地なのが広範囲にわたり震源となっている
予想・予測も困難な様子・・従来に見られないケースらしい
これまでの被災は勿論、先行きが読めない日々に更には将来の生活の立て直しに不安が一杯でしょう。耐えても頑張っても・・の気持ちでしょう
通常は何とも無い「水」の確保、僅かな量の入手にも苦労されている様子は見るに忍びない
少しでも明るい見通し・・新たな地震の恐れが薄まり余震が収まって行って欲しい

何方かと言うと沖縄県に近い徳之島で生まれ鹿児島県、奄美諸島徳之島・奄美大島両島の小さな集落を転々とした
高校時代は奄美随一の都市、名瀬市(現、奄美市)で過ごし本土に出ても初めは九州・鹿児島県鹿児島市内での生活
その頃は関西・関東の本土の兄弟・後に移り住んでた親元へ行くのに何度か九州地方の交通機関を利用していた。勿論、九州新幹線九州自動車道が利用出来ない頃。 今はJR、当時は国鉄さんでしたね
関西または関東方面への移動には専ら国有鉄道夜行寝台急行列車だった。 特急列車には乗れません! 特急券が必要でしょう!
今で言うグリーン車は無かったが座席指定で無く、いつも自由席だった?でも寝台だから指定席だった?
記憶はオボロゲ、1等車・2等車の違いだった?
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実は奄美群島から鹿児島港or神戸港中突堤までの船室には1等車・2等車が有った
一番安い料金の船室利用だったが船便では3等室だったかも・・
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上下だったか上中下だったか、いつもお安めの寝台利用でした・・でも、いつもワクワクしたもの・・長距離の列車の旅
一度だけ豊肥本線経由、四国の愛媛県八幡浜市
一度は阪神から鹿児島市へ日豊本線を利用しましたが、他は鹿児島本線ルートでした

今回、未だに続く大地震で鹿児島本線・豊肥本線は大きな運行規制を設けている由
本州や福岡方面より熊本・鹿児島方面への直行は出来ないようだし、突然の事態に利用客の方々も大変な事です

地震発生地域の方々は生活基盤を奪われたり少なからずの各種の生活不安が・・早く落ち着いて欲しい

未曽有の規模の地震・それに伴う大津波が襲って来た東日本大震災地域の方々も未だに大変なご苦労をなさっている

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某大手商社がサトウキビの搾りカスや利用されて無かった部位も発電燃料に? 昔 牛が回ってキビ汁を搾っていたなぁ

某大手商社がサトウキビの搾りカスや従来は利用されて無かった部位も使用して燃料にする事業を興すらしい
彼此もう60年ほども昔になるでしょうか、小学校入学前後のことになりますが生家のスグ近くに小さな製糖工場~本当に小さなミニ工場が有った
恐らく集落単位での黒糖生産工場だった?。それも長くは残らずスグに目の前から消えた
でも懐かしい!サトウキビを絞る為の回転機を牛に引かせていた。 当時でも珍しい光景だった。 収穫期の僅かな期間だし~。
絞り機の回転軸の周りをグルグル回らせてキビ汁を搾りだす。
その絞りとったキビ汁をパン(例えば洗濯機の下に漏水防止に敷く器・・これを大きくしたもの・・トレイ?)の中で煮えたぎらせ掻き混ぜながら黒糖にして行く。 本当に甘~い香りのプンプンする現場だった。
”絞りかす”の行方は分かりません。各家庭での燃料は薪だったし肥料は他に使っていたみたい・・かと言ってワザワザ捨てていた事も無いのでは? 幼い頃の記憶ゆえ行先は I am sorry. I do not know !
やがて本格的な製糖工場が出来て、集落のプチ製糖工場は姿を消して行った訳です。
その前後は生まれ育った徳之島を含めた奄美群島(他には奄美大島・喜界島・沖永良部島・与論島・加計呂麻島)が沖縄地域より先に米軍統治下から日本へ返還・復帰した頃
恐らくは本土よりの資本が製糖工場に投下されたからでは?
急に収穫されたサトウキビを満載したトラックが行き交うようになる。
遠く離れた製糖工場に向け狭いデコボコの泥んこ道を走ることに。
復帰に係る復興振興対策事業などで、今では道路も整備され短時間での移動が可能になっているらしい

二期作の稲作が主体も本土への移住、特に若者の流出や全国的な稲作生産価格の低下で後継者不足なのでは
砂糖工場も全体的には海外からの輸入品が多くなり・・・加工品や黒糖焼酎に目立つくらいかも
本場大島紬も一時のブームは有れど全国的に和服の需要が減少、更には低コストの外国産紬が入って来たり・・
で大変なのでは・・・復興事業を地場産業と見ていいのか分かりません

さて例の”サトウキビの搾りかす”については一度見学に行った製糖工場で燃料に回しますと聞いたことが有り、集落のミニ工場では見かけなかったので感心した記憶が有ります。
ミニ工場で絞ってもカスには未だに水分が残っている! でも大型工場では絞りに絞っているからだろうと妙に感心していました。
恐らくは今回の某商社の企画でも、それを進化させた事業化でしょう。 発電事業への燃料化?とか
今度はサトウキビの葉っぱ・茎の部分も活用する? ナルホド!
昔、さとうきび収穫の際は先ず茎に近い箇所を鎌で切り取る~次に何本も有る葉っぱを切り落とす~更にキビの外側の皮を剥ぐ~必要が有れば適当な長さに分割
この段階で利用出来なかった部分も燃料に利用する訳だ! 確かに葉っぱも自然に枯れたら燃えやすいものだから
ついでながら蘇鉄の棘の有る葉っぱも枯れたら一気に燃える・・五右衛門風呂を沸かす際、燃料の薪への火付けに枯れたソテツの葉をくべたこと有ったっけ。

今では味わえないサトウキビの味
収穫したサトウキビをキビ畑で皮を剥いてしゃぶる・・キビ汁を・・仮にキビを目にすることが有っても、今は歯がボロボロではねぇ~入れ歯では無理だよなぁ~
絞り出したサトウキビの汁から工場で黒糖に仕上げて行く段階での香ばしい温かい出来立てホヤホヤの黒砂糖・・あぁ~美味しかった!

サトウキビや黒砂糖、台風銀座と言われる奄美諸島(奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島・喜界島)では飴も自作だった?

先ほどの投稿記事にサトウキビ黒砂糖の表現も・・
小学校への入学前後の頃だったか・・大家族で住んでいた頃
二期作の稲作野菜も色々と栽培していた。 その中にはサトウキビの栽培も・・
台風銀座と言われる奄美諸島(奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島・喜界島)ではサトウキビの栽培が盛んだった
風を受けやすく風に弱いサトウキビ、銀座と言われるほど接近する台風の合間をぬっての栽培は大変だっと思う
サトウキビ以外にも台風を避けて年に2回もの米栽培も大変だったろうと・・思います~子供時代は、このような観点から見ることは無かったが
を持って先ずは根元から切り取る。 次に葉っぱ部分を切り落とす
ヒゲ状のニギ?に当たると痒い!
やや曲がった棒状のキビを何本か纏めて担ぐと肩に食い込み痛い
従い肩にはタオルやらを掛けて和らげる。 バランスも必要

時代が変わった後には収穫されたサトウキビは製糖工場へと運ばれて行った訳ですが先ほどの頃は収穫現場近くの地元のプチ製糖工場へ
生家の150~200m位の所に一時期はミニ工場が有った
スグに無くなったが微かに覚えているのは、そこではサトウキビよりキビ汁を絞り出す機械の動力源に力(人力の少し上の牛が円形に回って絞り機械を回す)を使っていた
別の工場では水車を使っている所も・・・
絞り出したキビ汁は今風に言うとパン(洗濯機の下に敷く防水パンを大きくしたもの)に流し込み沸騰させる。
水では無くキビ汁故、沸騰したら可成りの高温だったんでは?
パンの中の煮えたぎった砂糖汁を櫂(かい)みたいなもので掻き混ぜる
次第に固形化して行く・・・香ばしい甘~い匂いがぷんぷんと漂う
この過程で、やや柔らかめの飴状の砂糖を何と言っていたのか大き目の葉っぱに載せてもらって・・・食べるのが格別の味だった
生のサトウキビをしゃぶる味、黒砂糖を食べる味とは違う製糖行程の中間の甘~い味・・あま~い匂いを嗅ぎながら・・・
もう一つの楽しみは、この中間の段階の固まる寸前の柔らかい黒砂糖をウドンやソバをのばすみたいに冷ましながら両手で広げ縮めを繰り返してやがては白っぽい変色した砂糖飴にして頂く・・・美味しさは格別だった。
都会から遠く離れた奄美群島での菓子代わりの飴さんでした
沖縄より一足早く米軍の統治下より日本へ復帰した前後だった頃の事

それから数十年後、埼玉県坂戸市・鶴ヶ島市・東松山市周辺で営業の仕事をした際に小江戸とも称せられる川越市菓子屋横丁にも何度か立ち寄りました。
(残念ながら昨年、その菓子屋横丁にて火災が発生して今は復旧段階に有るようで大変みたいですが・・)
見聞きしたことは有っても実際、田舎では商店街と言える並びは無かったし品揃えも貧弱・・・また大家族故に経済的にも・・・
でも菓子屋横丁の雰囲気は最高だった
昔、田舎の小さな小さな製糖現場でもらって自分で飴にして食べた体験から相通じる何かを感じたんでしょう。 何となく落ち着く! 行きたい!
自転車でも何度か行きました。
焼き餅、団子にお土産に地ビールなど・・・