ここ亀岡市(京都府・・京都市に隣接)には田畑の農業用地・農地も多い
亀岡市内には結構なトラクター台数が有るみたいですよ
直接、麦の大生産地を訪ねては無いですがスグ近くで麦の収穫作業を見掛けた。
なんと大小色々なトラクターで収穫している。 スグにはクエスチョンマーク?だったが或る方に聞いてみたら麦の刈り取り中とのこと。
今年は雨が多く育ちが今一つ・・それ故に、稲刈り機ならぬ麦刈り機に例年の如く馴染まないらしい・・・実りが細く、引っかかり難いみたい
しかし稲狩り・麦狩り兼用トラクターか?
確かに一人前の十数倍くらい(失礼、馬力には程度の違いが・・)の効率での生産性か?
現時点では田植えの済んだ箇所は僅かなれど、耕運機が進化してのトラクターで耕したりで水を引く直前だったり・・苗代も待機中だったり・・
昔は我が家でも米作・・・田植えや稲刈り・脱穀もも・・・
所々で見かけた麦作と米作の二毛作では無く、年2回の米作りだった
一年に田植え・稲刈りとも2回ずつの二期作・・・その途中に台風銀座と呼ばれるほどの台風の進路・コースに・・・
米作・収穫量から見て難敵の台風だったなぁ~、よって味第一より風に強い農林??号とかの品種が優先だったか?
確かに先程の亀岡市内でトラクターによる耕運作業・稲刈り脱穀作業は高効率でしょう・・上をみたらキリがない
日本でも本格的な米作地域やアメリカの大農園では・・・見たことは無いが・・更に効率生産可能と容易に推察できる
我が家の田圃は親が徐々に買い足して行ったとか聞いたことが有った
畑は自宅近くに点在も田圃は2~3の集落離れた所に点在していた
従い米作作業は田圃まで行きつくまで大変だった
棚田とまでは行かないが高低差・変形の田圃、未だに集約化は無理でしょう・・・だって作れば作るほど・・・・当時でも時代物の耕運機は見かけたような・・・イセキ・ヤンマー・クボタ?
生家では親戚・家族総出の人海戦術で・・・余裕無かった筈・・耕運機購入費用が・・一度だけ微かな記憶が・・・夢ではなかろう・・
田んぼを鋤くのに牛を借りたことが有ったような・・引っ張ってもらう為に
だって一度は生家のスグ近くの小さな製糖現場でサトウキビを絞る回転機の周りを回る牛さんを見掛けたことも有ったし・・
考えて見れば珍しい不思議な光景でもなかろう・・だって日常的に牛車は有った訳だし。
小さな島の中とは言え、狭いデコボコ道を通って田圃に辿り着くまでが大変、帰り道は尚だったか・・あまり覚えて無い
ただ収穫済んで・・不思議に記憶が飛んでしまった・・脱穀前の稲の束だったか脱穀後の米俵だったか?・・・希少なトラックをを頼んで荷台一杯に積んで運ぶ・・・何度か荷台にしがみついて帰ったことも・・・
夕方の薄暗い中を流れ行く近くの木々の姿が一瞬、幻かと錯覚するような光景に見えたり・・・
滅多に乗れない本土からのお下がり品、ボンネット型乗合自動車の中で座席にすわり見る景色でなく顔のスグ横を木々の葉っぱ・道端の草が過ぎ去って行く・・・大袈裟と思われようが・・
幻想的だったなぁ~
よくも振り落とされないで帰れたもんだワ・・それで今も我有り・・不思議
脱穀も体格面でひ弱な身には欲張って太目の稲束を差し込むとあっと言う間に引っ張り込まれ脱穀機の爪に・・・あぁ~怖かった
脱穀して羽の長い手回し扇風機でチリクズを飛ばし米だけを下に集める・・・扇風機を回すも人力、多すぎる量ゆえ風の出てくる夕方には浜まで出向き自然な浜風を人動扇風機代わりにして選別したり・・・
さて最終的には庭先に有った高倉(豪商の高倉を想像する勿れ)~貧祖なちょっとした小さな藁葺屋根の・・・主には米俵貯蔵用?
確かに高床・・・湿気予防に通風・洪水による浸水予防、床柱・束柱にはネズミ・ハブ侵入防止のスベリを・・・
でも囲って中でニワトリを飼っていたことも有った
豚も飼ってました!
先に母親が機織りをしていたと記しましたが、父親が奄美大島へ転勤するまでの生家では全く見た覚えは無し。何処で何度の高い本場大島紬の織り技術を身に付けたか・・・ずっと家事の他、農作業だったし・・
もっとも叔母は織物工場では本場大島紬の指導員的な存在で秀でた織子さんだっと聞いている・・・若い頃から姉妹で織り方を習得したんだろうか・・・
改めて思い出すと、隣接の畑の周りには桑の木が何本も植えられていた。 時期が来ると、生家の縁側にはムシロを敷き桑の葉を散りばめて蚕を飼っていましたネ。
大きな鍋で繭を茹でて生糸を取り出したり・・・
ただ本場大島紬の織方は、父親が奄美大島へ転勤となり所有の田畑での農作業が出来なくなってから・・大きな決断wwだったんでしょう
代わりに本場大島紬の織作業を家事と並行して・・・
内心、織作業を教わるで無く独りで出来る見通しが有っての決断だったんでは・・・